霧とリボン
愛書家のための小間物ブランド《霧とリボン》のブログ
DATE: 2017/07/09(日)   CATEGORY: 直営SHOP
【Essay】高野麻衣「アイリーン・アドラー断章」
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 ごきげんよう、いい夜ね。菫色連盟の隠れ家をお探しかしら?
 ――驚いた? ごめんなさいね。私には、おかしな趣味があるの。人を観察することよ。
 私はアイリーン・アドラー。じつはもうひとり、おなじような趣味の紳士を知っているからご紹介したいわ。むこうのお店でいっしょに、お茶でもいかが?

 彼の名は、ミスター・シャーロック・ホームズ。
 今から130年ほど前、大英帝国の首都ロンドンを舞台に、さまざまな難事件を解決した名探偵として知られている。趣味は犯罪捜査。愛用品は、煙草とヴァイオリン。一見するとおかしな人だけれど、ヴァイオリンの腕前はたしかだったわ。
 ――私? 私は女優なの。と言っても、あくまでオペラ歌手だけど。生まれは合衆国のニュージャージーで、声質はコントラルト。ミラノのスカラ座にも出演したのよ。そう、あのころ私は、欧州のさまざまな国の劇場を遍歴し、さまざまな大物たちと関わって生きていた。あのオスカー・ワイルドやドヴォルザーク、モリアーティ教授もそのひとり。ホームズさんと出会ったのも、私の“お友だち”のとある国王をめぐる、ちょっとした出来事がきっかけだった。
 でもその前から私は、新聞の私事広告欄でシャーロック・ホームズという名前を目に焼き付けていたの。野心に満ちた素人探偵さん。彼がどんな人物か、それは胸がときめいたものだった。実際に対面したときも――彼は牧師に変装し、私は男装をしていたけれど、たぐいまれなる才能の持ち主だとすぐにわかった。
 月並みな言い方をすれば、私は彼に惹かれていたのだと思う――

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 理由の一つは、音楽。
 シャーロック・ホームズは1854年1月6日、英国北部のヨークシャー生まれと伝えられている。私より4歳年上。貴族階級ではないけれど、先祖代々の土地を受け継いだ田舎の大地主(ジェントリ)の階級だった。
 当時、裕福な階級の子女にとって音楽は必須科目。なかでも女子はピアノ、男子はヴァイオリンというのがスタンダードだったのだけど、ホームズさんはおそらく性に合ったのね。大人になると、あの有名な名器ストラディヴァリウスを質屋からわずか55シリング(現在の日本円で5、6万円程度!)で入手したのだそうよ。そして「メンデルスゾーンや自作の即興曲をしばしば演奏していた」のだとか――本当だとしたら、ホームズさんの音楽の趣味は、意外なほどロマンティックだと言わざるをえないわ。
 ワトソン博士執筆の事件簿に描かれたコンサートの記録も、音楽家としての私を刺激してやまない。だって当時活躍していたロシアの作曲家チャイコフスキーの自作自演やサラサーテの超絶技巧をミーハーっぽく聴きにいったり、依頼人の女性とコヴェントガーデンのオペラハウスを訪れたりしているんですもの。
 もし本当に、私を“あの女性”として意識してくれているとしたら、それは私がオペラ歌手だったことも原因なのかもしれない。それほど、彼と音楽は親密なの。

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 二つ目は、ワトソン博士。
 前述のとおり、ホームズさんの事件簿を執筆していたドクター・ジョン・ワトソン。本業は医学博士。少し女性に弱いところはあるけれど、勤勉で誠実で驚くほど我慢強い、ホームズさんの相棒よ。いま、世界中でよかれあしかれ騒がれすぎているのがふたりのブロマンス(ブラザー・ロマンス=男同士の絆)だと聞くけれど、さもありなんという感じね。
 私も、「四人の署名」事件のあと博士と結婚したメアリー・モーティマーも、あの相棒たちの前では完全なる“あて馬”のように思えてしまうことがある。イヴ・K・セジウィックが論じたように、「ホモソーシャルにわりいる異性の存在は、その関係性により複雑な愛憎模様を生じさせる」というわけ。
 数年前に公開されたガイ・リッチー監督の映画『シャーロック・ホームズ』では、その相棒たちと私、すなわちアイリーン・アドラーの描き方が絶妙で、御礼を言いたいくらいだった。敵方についたとみせかけて、相棒たちと(得意の男装をして)共闘するのだから。つかずはなれず、くされ縁の距離感がたまらない。「私が恋しくなるわよ」と嘯くアイリーンに、「悲しい哉、そのとおりだ」――額にキスして、相棒のもとへ戻っていくホームズさん。この幕切れは、歴代アイリーン・アドラーものの最高傑作ではないかしら。

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 三つ目は、英国そのもの。
 ホームズさんやワトソン博士、そして私アイリーンは、さまざまな「創作物」となって描かれてきたけれど、グラナダテレビ制作の『シャーロック・ホームズの冒険』ほど、愛着のある作品はなかった。1984年にスタートしたドラマシリーズで、舞台役者出身の英国俳優ジェレミー・ブレットによる“完璧なホームズ”の再現ゆえに、いまも世界中のシャーロキアンに支持されつづけている名作よ。
 英国紳士らしいスーツの着こなし、ハドソン夫人がしつらえる紅茶のテーブル、ロンドンの街並みや郊外のマナーハウス、そこに立ち働く執事やメイド、そしてその映像にぴったりと寄り添うクラシック音楽。ホームズさんのヴァイオリン趣味にちなんでか、メインテーマ「Baker Street 221B」もヴァイオリン協奏曲風に仕立てられていた。その音楽と賑やかなベーカー街を見下ろす探偵の横顔に、私は何度も、息をとめて見惚れたものだった。そこには懐かしい、19世紀の英国がつまっていた。
 そして、そのたびに思ったの。私はたぶん、犯罪や謎解きが好きなんじゃない。
 この世界が美しい薔薇のように、神の恵みに、愛に値するものだという希望――それを教えてくれるのが、シャーロック・ホームズなんだって。

 少し、おしゃべりがすぎたわ。
 あなたが菫色連盟の謎を解明してくれるのを、楽しみに待っているわね。
 ――おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん。



高野麻衣 Mai Takano | 文筆家 →HP
上智大学文学部史学科卒業。歴史をベースに音楽、美術やマンガ、プリンセスについて、『25ans』等さまざまなメディアに執筆・出演。ラジオ『Memories & Discoveries』(JFN系列)レギュラー。著書に『フランス的クラシック生活』(ルネ・マルタン 著/高野麻衣 解説、PHP新書)、『マンガと音楽の甘い関係』(太田出版)などがある。CD『マリー・アントワネットの音楽会』(ワーナーミュージック・ジャパン)好評発売中。



高野麻衣 × 霧とリボン
ホームズ・オマージュ共同企画展
《The Mauve-Headed League~菫色連盟》

2017年7月16日(日)〜7月22日(土)
13:30〜19:30 *最終日のみ〜18:00

北原尚彦 × 高野麻衣
トークイベント
「ミスター・キタハラ、菫色連盟へ行く」

2017年7月30日(日)
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